生年月日 | 1973年10月22日 |
出身地 | 愛知県西春日井郡豊山町 |
経歴 | ・愛工大名電 ・オリックス・ブルーウェーブ(1992-2000) ・シアトル・マリナーズ(2001-2012) ・ニューヨーク・ヤンキース(2012-2014) ・マイアミ・マーリンズ(2015-2017) ・シアトル・マリナーズ(2018-2019) |
主な戦績 | NPB ・首位打者:7回 (1994年-2000年) ・打点王:1回 (1995年) ・盗塁王:1回 (1995年) ・最多安打:5回 (1994年-1998年) ・最高出塁率:5回 (1994年-1996年、1999年-2000年) MLB ・首位打者:2回(2001年、2004年) ・盗塁王:1回(2001年) |
小学生で木製バットを使用
イチローと野球の出会いは3歳の時。
父親からプレゼントされたおもちゃのバットとボールを持って外によく遊びに出かけていました。
そして小学校3年生になった時、地元豊山町のスポーツ少年野球チームに所属。
この時からすでにエース兼4番の中心選手として活躍。
イチローの父親は自営業だったということもあり、午後3時になると毎日2人で練習していて、なんと4年間休むことなく練習していた。
そしてイチローは将来「プロ野球選手になりた」いという目標を早くから明確に持っていたため、小学5年生になってからは木製バットを使用。
ボールも軟球から硬球へと変えました。
今でこそシニアが普及していて、小中時代から硬球を扱うことも珍しくありません。
しかし当時まだ少数派だった硬球を使ったトレーニングがイチローの中では当たり前となっていました。
そしてイチローのバッティングセンター通いも有名。
小学校5年生の時にはすでに120キロを普通に打てるぐらいになっていました。
バッティングセンターのボールは多少ずれが生じ、ボール球となってしまうこともあります。
しかし、イチローの父親は「ボール球には手を出すな」と指示し、そこで選球眼を磨いたといわれています。
中学時代には全国3位
中学時代は地元の豊山中学校へ。
そこでも中心選手として活躍し、中学3年生時には全国大会3位という成績を収めた。
なお、この時もピッチャーで打順は3番。
イチローの中学時代のエピソードとして、当時の橋本監督が「ホームランを打ってこい」と指示をしたら、本当にホームランを打ってベンチに戻ってきたという逸話もあります。
また、イチローは野球だけでなく学業にも力をいれていて、音楽と数学以外はオール5の成績を残したことも。
担任の先生からは進学校へ行くことを勧められましたが、プロ野球選手になりたいという希望を持っていたため、愛工大名電高校を選択。
なお、中学時代から突出した才能を発揮していたイチローには愛工大名電以外に享栄、東邦、PL学園などからの勧誘もありました。
甲子園では活躍できず
高校時代は唯一挫折を経験した期間だったといえます。
甲子園には2度出場していますが、ともに初戦敗退。
初めての出場は高校2年生の夏。
結果的に優勝した天理に初戦で敗れています。
そして最後の甲子園出場となったのは高校3年生の選抜大会。
後に日本ハムへ入団した上田要する松商学園に初戦敗退しています。
イチロー自身も5打数ノーヒットに終わり、甲子園で活躍することはできませんでした。
なお、松商学園はこの大会準優勝しています。
甲子園から早々と姿を消して全国的に注目を浴びることはありませんでした。
しかし最後の大会となった高校3年生、夏の愛知県予選では決勝の東邦に破れるまで8試合で打率7割5分。
全国的な知名度こそ上がらなかったものの、スカウトの間では素晴らしい選手として注目されていました。
才能の片鱗を見せていたプロ1、2年目
オリックスからドラフト4位指名を受け入団。
高卒ということで育成のチーム方針もあり、1軍での出場は40試合。
ただ、少ない打席数ながらも24安打を放ち、打率2割5分3厘。
高卒1年目としては上々の成績を挙げています。
なお、特筆すべきはウエスタンリーグでの成績。
高卒1年目ながらも打率3割6分6厘で首位打者に輝いています。
この頃から安打製造機としての才能を発揮していました
そして1年目のオフにはハワイのウィンターリーグに参加。
日本人でただ1人、ベストナインに選ばれています。
そしてプロ2年目。
この年はキャンプ、オープン戦から1軍に呼ばれ、開幕戦にもスタメン出場。
しかし、なかなか調子が上がらず、21試合に出場し、22打数1安打(0割8分3厘)という結果に終わり、4月25日には1軍選手登録を抹消。
結局、1軍と2軍を行き来する状態となり、1軍での成績は1年目を下回る12安打、打率1割8分8厘という結果に。
しかし、その才能はウエスタンリーグでは発揮し続け、打率3割7分1厘、ホームラン8本という成績を残して、2年連続ウエスタンリーグの首位打者になっています。
さらに30試合連続安打というウエスタン記録を樹立していて、その頃からイチローの記録ラッシュがスタートといえるかもしれません。
転機となったプロ3年目
イチローがスターダムへとのし上がったのは1994年。
監督が仰木監督に代わった年。
この年も開幕からスターティングメンバーに名を連ね、1軍での出場を続けていました。
ただ、開幕当初はそれほど目立った成績はなく、4月27日を終えた段階での打率は2割8分1厘。
しかし、その後4月28日に初めて1番で起用されると調子が上がっていき、打率はあっという間に3割超えに。
そして4月27日から5月19日まで18試合連続安打、5月21日から6月21日まで23試合連続安打を記録。
そしてついには6月29日に4打数4安打を放ち、打率が4割越え。
今までにないハイペースに、報道陣からの注目度も一気にアップしてきました。
そして9月14日には当時まで日本記録だった藤村選手の記録を破る192安打目。
最終的には130試合出場で210安打という記録をマーク。
当時は打率4割を超えるのではないかというほどハイペースな形で安打を記録し、最終的には打率も3割8分5厘という好成績となりました。
衝撃のメジャーデビュー
イチローはオリックス時代に5年連続最多安打、7年連続首位打者など、さまざまな記録を残し2001年、ついにメジャー移籍を果たします。
ポスティングシステムによりマリナーズが交渉権を獲得。
独占交渉権は130万ドル。
日本円で14億5000万円程度といわれています。
その後、メジャー移籍した松坂投手が60億円のポスティングとなっていますから、まだまだ日本人の評価が低かった時代での移籍と言えます。
当時は野茂投手など、日本人投手は活躍していたものの日本人野手は初めてでした。
「本当に活躍できるのか」という疑問視する声があったものの開幕からレギュラーに定着。
開幕戦で見事2安打を放ち、チームの勝利に貢献し、好スタートを切ると、その後も活躍を続け4月と5月で月間新人MVPを受賞。
オールスターにも選ばれています。
最終的には好調なチームの波にも乗って首位打者、盗塁王、ゴールデンクラブなど様々なタイトルを獲得しました。
そしてイチローの代名詞となったレーザービーム。
きっかけはメジャー1年目のアスレチックス戦で見せたプレー。
ワンアウト1塁の場面で、打球はライト前に転がり、ランナーは3塁へ進塁。
すかさずライトのイチローが3塁へ送球するとタッチアウト。
この送球がレーザーのように美しいことから実況が「レーザービーム」と呼び、多くの注目を集めました。
キャリアハイは2004年
イチローの歴史を振り返る中で欠かせないのは2004年。
この年は4月は打率2割5分5厘とスタートに出遅れたものの、5月から調子を上げて8月には首位打者に踊り出ます。
8月は月間最多の56安打をマークするなど、好調を維持し、8月26日には自己最速で200安打を達成。
そして注目を集めたのは、84年間破られていなかったジョージ・シスラーの257安打という記録。
イチローはプレッシャーをものともせず、10月1日に258安打目をマークし、球場はスタンディングオベーションに包まれました。
最終的にこのシーズンで262安打をマーク。
不滅の記録として今でも語り継がれています。
なお、テレビではあまり報道されていませんが、イチローは記録を保持していたジョージ・シスラーのお墓参りに行ったという逸話もあります。
歴代の名プレーヤーを尊敬しているイチローならではのアクションといえるでしょう。
移籍を経てマリナーズで引退
長きにわたってマリナーズで活躍したイチローですが、2011年頃から成績に陰りが見えます。
この年初めて打率が3割を切り、200安打も到達せず。
最終的には打率2割7分2厘、184安打でシーズンを終了しました。
肉体的衰えは見えないものの、動体視力の低下やスピードの衰えが指摘しはじめます。
そして翌年の2012年7月、ヤンキースへの電撃移籍を発表。
この移籍に際し、球団主導でトレードされたわけではなく、自らの意思で移籍したと後のインタビューで語っています。
この頃から環境の変化を求めるなど自身の考え方に変化が生まれてきたということでしょう。
マリナーズを出た後のイチローはヤンキース、マーリンズへと移籍をします。
この頃はスタメン出場も減り、苦しい立場へと変化していました。
そして、2018年。
古巣マリナーズへ復帰。
成績的には衰えていて、全盛期の活躍を期待する声はかなり少なくなっていました。
とはいえ、マリナーズで一時代を築いた選手であり、多くのファンが歓迎しました。
そして2018年のイチローはオープン戦で右ふくらはぎを痛め、不安を抱えた状態で開幕戦にスタメン出場。
コンディション不良も重なり、なかなか結果が出ず、25試合に出場して9安打、打率2割5厘となったところで球団が選手登録を外すと発表。
マリナーズとアドバイザー契約を結び、残りの試合には出場しない契約となりました。
そして2019年、再びマリナーズと選手契約。
2019年開幕戦は日本で試合が行わることがすでに分かっていたため、イチローの花道を球団が用意したともいえます。
もちろんオープン戦で結果を出せれば、さらに選手契約を伸ばす考えも球団にあったかもしれませんが、その考えをイチローが跳ね返すことができませんでした。
最終的には、東京ドームで行われた2試合に出場し、現役引退を発表。
多くのファンに挨拶し、現役生活に幕を閉じました。
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